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 鹿沼今昔ものがたり
 コラム:白石さん

 その一
 その二 秀吉の好色、鹿沼の衰退
 その三 徳川家康没して・・・
 その四 家康の柩 鹿沼に・・・
 その五 秀忠、釣り天井を避け・・・
 その六
 その七 家光は家康が大好き
 その八 鹿沼の消費と経済
 その九 天朝さまのお使いが通る
 その十 天下太平祭りだ祭りだ
 その十一 薬用人参の栽培
 その十二 終わりの初めは大変だ

 


その十二 終わりの初めは大変だ
嘉永六年1853年7月米使ペリーは軍艦4隻で浦賀に来航、翌年はさらに9隻に増やして強く開国をせまり、風雲急を告げるご時世となった。
柿沼家は今宮神社、神職の家であります八代目、廣身30歳の時黒船が来航し、ハリスが来日して通商条約が始まったのが1856年、開国か攘夷か国論は大きく割れた。
柿沼廣身35歳の時、江戸に出て平田鉄胤の門に入って国学を修め、千葉周作の門人、宮和田光胤から北辰一刀流の目録を得て鹿沼に戻るや今宮神社の境内に塾を作り、子弟に教えた。
また幕府体制からの脱却を求める声が高まるなか勤皇思想も萌芽してきます。新体制を作ろうと言う人々を後になって勤皇の志士と言いました。
廣身も熱い血汐のたぎる同士、宇都宮藩の県勇記、水戸の藤田小四郎などと交わり奔走した。
やがて幕府に追われ多田忠三郎と変名して京から四国に渡った。明治まで後7年、やがて機は熟して鳥羽伏見の戦いが始まるや有栖川大総督の旗下に東征軍として江戸に進みました。
志なった廣身は鹿沼に帰ります。世は明治と改まり同7年に栃木県神道教導取締に就任、また日光二荒山神社の宮司となりました。この頃、中禅寺湖に魚はいませんでしたが廣身は模索の末、鯉を放し成功します、今の養殖の先がけに成ったのです。
今宮神社の鳥居の奉額は有栖川親王殿下の筆になるものです。廣身は明治26年・67歳で没します。その時殿下より下賜された榊の木があり、その前に有栖川親王殿下御下賜之榊と石柱に刻んであります。幕府から明治の動乱期を生きた有栖川宮と柿沼廣身の関係は浅からぬものであったのでしょう。
有栖川宮は皇女和宮と結婚することになっていましたが、和宮は朝廷と幕府の融和のため十四代、徳川家茂に嫁ぎました。
時代が大きく変わるとき、昔も今も人は懸命に生きる。

 
 
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