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その十一 薬用人参の栽培で吉宗さまさま
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八代将軍吉宗の時代、享保13年(1728)日光の七里という所で栽培していた人参は、気候が適していたため次第に軌道に乗って来ました。幕府もこれをいっそう奨励したので、作付け地も増えて、日光と同じ寒冷気候の鹿沼の北西部、板荷にも人参の栽培が広がってきました。寛政12年、幕府は板荷に人参製法所を作ります。
地元の人は人参奉行所と呼んだ。
人参作人は1,000人にも及び、世話人は100人となり、鹿沼近郷の村々に作付けは広がって行きました。
世話人は、人参の種から管理する人で、蒔付量は2000粒までとされて発芽はどうか、2年生は何程、3年生は何程、毎年9月には4年生で掘り出し、これを奉行に報告する。その上で人参製法所へ持っていき、上・中・下と選別される。
人参を隠したり勝手に売買したりする事が無いように、厳重な管理の基にすべてが行われたようです。
各村から持ち込まれる土人参の選別、格付け、水洗い、湯通し、陰干し、江戸への輸送と、将軍家御用という重責の下に、異郷に倒れた奉行の墓は、板荷の観音寺に三基並んであります。没月はいづれも繁忙期の8月、9月でした。
徳川幕府の人参への関与は、明治2年で終わりを告げます。
幕府崩壊して買い手を失った人参栽培者は、それでも作り続けるしかありませんでした。やがて、明治資本主義の萌芽と共に、再び人参に陽が当たる様になります。日光人参として今の中国へ輸出されました。
代表する人物は、安田善次郎でありましたが、地元からも人参から得た資金を、後年、麻産業の近代化を興し、当時財界で重きをなした鈴木要三も人参世話人の家系でした。 |
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