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その九 天朝さまのお使いが通る
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例幣使は古来朝廷から伊勢神宮へ遣わされていました。正保3年1646年日光東照宮へ参向して以来慶応3年まで、221年続いた。
毎年4月1日京を出立して東海道を草津から中山道に入り、木曽路を越え倉賀野から分かれて玉村・八木(八木節発祥の地)・大田・梁田(足利市)・天明(佐野市)・富田(大平下)・栃木・合戦場・金崎・楡木の23里、92キロこの間を例幣使街道といいます。
ここで日光街道壬生通りと合流します。今夜の泊まりは鹿沼宿はもうそこ幣使に加えて京の商人、荷駄、前後には道中に係わる藩などの警護などなど総勢200人余りとなった。幣使が用意してきた、御供米5〜6粒を一包みとして2万包みは鹿沼に着く頃にはかなり減ってきています。宿では公家の入った風呂の水を厄除け薬として売ったという話も残っています。
幣使の一行に商人たち、米屋、魚屋、八百屋などが同行しているのは貧乏公家の集金が京ではできないので、例幣使の機会をのがさず同行して幣使の変わりに集金して歩いた。これが御供米だったのです。それがためには幣使は天子様の御名代、参議がなります権威をより高く、威厳を保つ演出も必要でありました。
迎える方は毎年4月になると、道普請が始まり前日には川砂が撒かれ、町役人、町年寄りは手配万端に気を遣います。こうしたことが200年あまりも続いたのは、係わる人すべてが何らかの利益があったからでしょう。幕府は朝廷から幣使が来ることによる権威、幣使は一度東照宮に使いすれば一釜起こす、と言われるほどのおいしい役目、商人たちは日光見物を兼ねての集金旅行、迎える方も白粉をつけた都の男を一目見ようと人が出る、金も動く、なにより京の文化に触れる誇りがあったのでしょう。
4月15日日光に着く。16日暁に沐浴して輿で石鳥居まで行き陽明門から唐門へと進み手水をつかい、拝殿階下で沓を脱ぎ剣は帯びたまま中央に着座する。参拝して宣命を高く奉じて、奉読したのち奉幣の儀を行う、これで幣使の役目は大体終わる。あとは前年の幣を細かに分け、東照大権現ご神体として江戸の大名達に売りつける仕事が残っている。
今、こんなお使いどこかにありませんか? |
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