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その八 鹿沼の消費と経済はこうして変わっていった
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江戸から河川水路を利用して乙女河岸「間々田」に来て思川をさかのぼって、壬生に来て陸揚げされる。
壬生から四里「16キロ」鹿沼までは陸送されます。家康・秀忠・家光のころの内町通りは御公儀が最優先され物を売るのは立ち売りのみが許されましたが、いつしか板戸を並べて商いをするようになり、元禄の頃には諸人の往来も増えてきます。さらに例幣使の通行もあって内町も店を持って商いをする者が出てきました。
元禄6年内町の藤作と田町の佐五兵衛という2人が共同して内町に穀問屋を開いたところ、田町の穀屋13人が藤作の店に来て「昔から穀問屋はそれぞれ13人が祖先の代より、お上から許されて穀座の株を持っているものである、しかるにお上のお許しなく穀問屋を始めるは、もってのほか」と、藤作が商売をできなくしてしまった。今度は藤作と佐五兵衛がお上に訴える事件i昧になった。
結果、古来から穀座は田町であることが確定され、田町の13人に内町の4人を加えて決着した。
元禄8年、内町通りのほうには益々人通りが増えて商いが活発になって行きます。当然の事ながら商品も増えてきて商人は富裕となっていきます。
田町の人々は古来からの先例に依存しすぎた。元禄8年田町側からお上に訴えがあった。古来より両通りとも商いの方法と商品がお上によって決められている。内町はそれに背き商売をしている。取り締まって欲しい、というものであった。これに対して結果は、田町は木綿・古着・紙・茶・細工物・ネギ・ニンニク・炭・鍬・鎌、内町は麻・小間物・塩・竹木・たばこ・真綿と決まった。これを元禄の品分けと言った。内町に麻のお許しが入った。後にこの麻は300年も鹿沼を支えた大きな産業になろうとはこの時誰も予想をしなかった。
徳川家光の葬列が鹿沼を通ってから45年後のことでした。
壬生氏は五代 百三十年で滅亡家臣の多くが帰農しました。その後の鹿沼は結城氏の支配下に置かれました。 |
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