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その六
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戦乱が収まり、鹿沼の町づくりも一応おわり、宿場を様々な人々が通り過ぎて行くうちに時代も過ぎて行きます。金兵衛と供に働いた17人も次の代となっていました。
伊矢野家はもと矢野と言い鹿沼没落の後、小山の大名に供奉したが小山落城後は鹿沼に戻り伊の字を頭に付けて伊矢野と名乗ることになりました。
矢野修理祐は伊矢野与作郎とその名を改め、表口 百間余の屋敷を造りました。
世間の人は与作郎どのは金銀をどれだけ持っているのか自分でもわからないようだ、と噂し会った。又金の使い方を知らないのでこんな風にしていると評判になった。それは女十二人を召し抱えてすべてが器量よく年頃もおなじ、衣服・櫛・簪・手ぬぐいまですべてがお揃いで区別が付かない、給金は望みしだいで、百、二百両と払っているらしい。
江戸の人が日光参詣のおり鹿沼の与作郎宅でご馳走になった時、同じ女中が次からつぎと現れるのには驚き古今話にも聞いたことがない、江戸にもどってこの話をしたところ、いつしか唄ができた。
「関八州で良い女が見たけりゃ下野鹿沼の田宿与作どんへ御座れ」
宝永年間、相州小田原に旅をした鹿沼の人が石臼ひき唄を聞いてきたと地元でもそのことに改めて評判になったようです。やがて与作郎は隠居して宋丹と名乗って髪もおろします。家業の造り酒屋は倅の平右衛門が継ぎますが、元禄の頃火災にあって七つの蔵全てが焼けたと記録されています。
金子がぞろり流れ出ていたので、もがりから中に入った所、叱られてしまったので、逃げ出した覚えがあります、私が七つか八つの頃でした。
鹿沼古記録にはこう書き残されています。
その子孫は今でも健在、普通の人です。 |
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