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その三 徳川家康没して鹿沼のまちづくり
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元和二年四月一七日、家康は後に”人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し”と言われるごとくの生涯を閉じます。その夜のうちに久能山に葬られたと言われます。今の習慣からみればずいぶん早いと思いますが秀吉もやはり、その夜に葬られたとありますから、当時の慣例だったのでしょう。
これより三年前、僧天海が日光山の貫首となっておりましたから家康生前からの計らいであったのでしょう。幕府は日光に東照社の造営に着手しました、造営奉行・藤堂高虎でした。
秀吉軍に攻められて落城した城のまわりには十年程たって鹿沼の氏神今宮神社の再建をしました。人々の暮らしが安定してきたのでしょう。
さらに十五年が過ぎ、天下は次の時代へと移り再び日光に陽があたります。つれて鹿沼も人々の往来が増え賑わいを少しずつとりもどしてゆきます。支配者も結城氏から徳川の代官、大河内金兵衛秀綱になっていました。金兵衛はこの時七十有余才になっていましたが最後のご奉公と老骨を自ら励まし、日光街道の整備に取り組みました。住民のなかからも、鹿沼再建に立ち上がった人々がいました。鈴木兵庫之丞・篠田半左衛門・問屋利右衛門・伊矢野藤左衛門・伊矢野助左衛門○○団之助・波田野藤左衛門・○○太郎左衛門・松島宗休・伊矢野清左衛門・柳田四郎左衛門・竹沢○○・椎谷次郎之進・座原弥左衛門・船越文弥・早乙女茂左衛門・大谷与惣次の十七人でした。
金兵衛 頑張って 頑張れ まちおこしの元祖 |
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