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その二 秀吉の好色、鹿沼の衰退
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関東の雄 北条氏はあっけなく滅んだ。150年 民政に力を注ぎ枝城、属城 約50 300万石の覇者も、秀吉の津波のごとき大軍と物量に圧倒されたのでありましょう。そして小田原評定という芳しくない話だけが残りました。
前回ふれました壬生氏も北条氏も殉じましたが、皆川と鎌倉時代からの名家小山氏も所領没収となります。7月古河に入った秀吉の仕置きは続きます。ここで足利氏にふれます。足利尊氏によってできた室町幕府は東国を治める関東管領を置きましたが相次ぐ下克上と戦乱によって衰退し、9才の姫1人を残すのみとなりました。
関東管領の分かれに小弓御所があり、その出自のお嶋は塩谷惟久に嫁いでいましたが、塩谷は秀吉の武威に恐れて那須の山に側室を連れて逃れ、主にかわって秀吉に謁見したのがお嶋でありました。
秀吉54才お嶋23才 お嶋は己を秀吉に献じて足利の存続をはかります。京の足利将軍は信長によって既に亡く、いまや足利の血脈は9才の氏姫1人という風前の灯火。お嶋の決断と秀吉の好色がさまざまな波乱をへながらも、現代まで源氏の名家の血統を絶やすことはありませんでした。
秀吉は化粧料として、喜連川に3800石を与え会津にむかいます。氏姫は古河で成長してゆき、やがてお嶋の弟頼氏と夫婦となります、喜連川は徳川の時代も源氏の血筋として客分扱いされ大切にされました。お嶋は秀吉が死んだ年、京都で尼となり翌年江戸に庵をむすび88才まで生きた。フジテレビのそばにある月桂寺に墓があります。古河市と喜連川町は姉妹都市として交流しています。 |
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